撮影日初日は、そのヒトの誕生日だった。
「椎名林檎」と名乗るその女性
普段テレビや雑誌、ステージでしか拝見していないのもあって、
和装で髪を結っている彼女が、さらに気高く見えた。
自分よりも2つも下だったというのにも正直驚いた。
彼女の作品への出演依頼は、どんな大作映画より私の胸を躍らせた。渡された本の世界も
・・・とても惹かれるものだった。
「よろしくお願いします」と手を差し出すと「こちらこそ、よろしくお願いします」と
深々と頭を下げた。
彼女の口元に、お歯黒が塗られているのに驚いていると、私の引っ込めかけてしまった手
をしっかり握って、彼女はさらににっこり笑った。
撮影が始まると、ばたばたしてほとんどゆっくり話す暇もなかった。
「お芝居など、観る側で、する側では到底」などと言っていた彼女もカメラが回るとしゃ んとする。
さっきまで、私に「ラスト・サムライ」で、曲を書きますなんて変なこと言って笑わせて
くれていたヒトとは大違いの真剣な面持ち。
憧れていたヒトが目の前にいる。
そんな束の間の幸せは、脆く終わりを告げていく。
撮影がおわれば、私たちはもと共演者という形でしか残らないのだろう。
彼女の足首の鈴がしゃらんとなる度に、
共演者の男性に心なしか嫉妬を感じた。
「貴方は私に 誰になってほしいの・・・・?」
彼女のせりふが、心に香った
「カット」の声がかかり、周囲の安堵のため息と拍手が彼女を取り巻く
人ごみにまぎれて、私は撮影現場である洋館の外へ出た
今日で、終わってしまうんだなぁと・・・・空を仰ぐ
「貴女は私に誰になってほしいの?」
誰ともなくつぶやく。
それに答えるように、
「私は貴女に、私になってほしかった」と後ろから声がかかる
「・・・え?」と振り返ると
衣装のまま、はだしで立っている彼女がそこにいた 。
「林檎さん、風邪ひいてしまう」
あわてて駆け寄り、崩れた彼女の襟元を正すと
袖から伸びる白い腕が私の首に巻きついた。
十一月末の空気は、容赦なく体を冷やしていくのに、
頬が急に熱を帯びていくのを感じた。
「えっ・・・あの・・・」
戸惑う私にふっと身体を離して、眼を合わせる。
燐としたきれいな瞳
「本の中だけではなく、あたしは貴女になりたかったのかもしれません」
言葉の意味を考える暇を与えず開きかけた唇が、彼女の人差し指でふさがれる。
なんて冷たい。指先。
「逢瀬は、後程」
ふわりと、彼女がほほえむ。
どこからか、私たちを呼ぶ声がして
「行きましょう、小雪さん」
手をひかれてスタッフの元へ戻った。
終わりではなく始まりなのだと
指先で伝えてもらえた気がした。